彼女の福音
肆 ― 岡崎女史の密会 ―
少しためらった後、あたしは携帯に登録されている番号を押した。
コール音が、やけにじれったく感じられた。
『はいもしもし、春原です』
「陽平?あたし。杏」
『え、杏?めずらしいね、僕にかけてくるなんて』
「いい、あたしの話よく聞いて」
『あ、うん。え、まさか愛の告白?』
「冗談言える場合じゃないから、黙って聞いて!」
余裕なくあたしは電話越しに怒鳴ってしまった。
「ねえ陽平、話があるの」
『……何だよ』
呼吸を整えてから、意を決して言った。
「今日、会えない?」
待ち合わせの時間より三十分早くあたしはそのファミレスに着いた。やってきたウェイトレスにコーヒーを頼むと、あたしは昨日の光景を思い出していた。どこかにあたしの考えている理論の綻びがないか、懸命に探しながら。
時間より五分遅れて陽平が来た。本来ならメニューを顔面に投げつけるところだけど、ここから離れて暮らしている陽平を今朝がた連絡したんだから、贅沢は言えなかった。
「遅れてごめん」
「ううん。こっちこそ、休日にごめんね」
「で、話って何?」
何か言おうとしたけど、言うのが怖くなって俯いてしまった。
「岡崎のこと?」
「……まあ」
「智代ちゃんのこと?」
「……うん」
「喧嘩でもしたの?」
「ううん……」
陽平が肩をすくめる。
「あのさ、陽平から見て、朋也と智代、どう見える?」
面食らった顔をする。
「どうって……バカッポー道まっしぐらにしか見えないけど。万年新婚ってあいつらのことだなぁ、って感じ?」
「だよね……うん」
「どうしたのさ、歯切れ悪いな。杏らしくないな」
「……あのさ、あたし見ちゃった」
急に陽平の顔が陰る。
「何を」
「智代が……」
言い出す勇気を求めて、あたしは深呼吸をした。
「智代が他の男に会いに行くのを」
土曜日の昼はウィンドーショッピングに出かけるのがあたしの習慣となっている。昨日も、あたしはしばらく洋服店を冷やかして歩いた後、ふと暦を思い出した。
もうそろそろ秋なんだなぁ。
そう言えば、近くで紅葉がきれいなスポットがあるって、昔椋が言ってた。何でも、勝平とよく行ったところだという。保育園の行事に使えないだろうか、と考えながら、あたしはそのスポットを探す途中で迷ってしまった。
そして気がついたら、昔よく歩いた通学路を通っていた。
そう言えば、この道はよく朋也と椋の三人で歩いたっけ。
昔を思い出して少し寂しげに笑った時、見慣れた声を聞いた。
「それでは、また明日もお伺いします」
「ああ、じゃあ気を付けて」
すぐ後に聞こえた男の声は、朋也のではなかった。
何か嫌な予感がして、あたしは咄嗟に家の影に隠れた。
玄関から人が出てきた。腰まで伸びた長い髪。黒いヘアバンド。完璧ともいえるほどに着こなしたベージュのスーツ。間違いない。岡崎智代だった。
しかしどう見ても様子が変だった。しきりにあちこちを見まわしながら、時々立ち止まって振り返る。変質者を警戒する、という風ではなかった。そもそも智代なら変質者が束になって襲って来たって、一瞬で全員沈没させることができるだろう。
いや、むしろその仕草は誰かに見つかるのを恐れているようだった。
誰?聞くまでもない。朋也だ。
でも何で智代が朋也に隠れて行動しなけりゃいけないんだろう?さっきの男は誰だったんだろう?
気になって、朋也に電話してみた。
「もしもし?朋也?あたし」
『杏か?どうした?』
「うん、智代と話せたらなって。代わってくれる?」
『智代?あー、ごめん。あいつ今日は休日出勤だって言ってた。もうそろそろ帰ってくると思うけど、来たら電話するように言おうか?』
「……ううん、いいの。こっちで携帯にかけてみるから。でも大変ね」
『そうなんだよな。情けない話だけどさ、俺だけじゃあいつを養っていけないしな。何せ俺の稼ぎは……稼ぎは……』
この夫婦はよくもまあ自分達のトラウマをうっかり踏むもんだな、と呆れた。
「くよくよしなさんな。いくら朋也の稼ぎが智代の足元にも及ばなくったって、夫婦なんだから」
『お前それフォローになってないのな』
「あはは。じゃあ、またね」
電話を切った頃には、あたしの頭の中で、一つの疑惑が鎌首をもたげていた。
嘘。智代は朋也に嘘をついて、さっきの男と会ってる。
信じたかった。あたしは朋也が好き。昔は大好きだったけど、今じゃそれすらも終わったものと認められるほどに好き。そしてあたしは智代も好き。いつもがんばって空回りしながらも親身になって話を聞いてくれるあいつが好き。だから信じたかった。
そう、信じたかったんだ。何が嘘でも、二人の愛だけは本物だって。
「……」
陽平の目が厳しかった。
「どう思う?あたしの勘違いかな?」
ためらいがちに聞いてみる。
「ごめん、杏の話を聞く限り、間違いって言ってあげられない」
沈黙。
「ねえ、どうしたらいいかな」
「……」
「もし本当にこれが浮気なんだったら、言わなきゃいけないと思う。そっちの方が、嘘吐き通すよりもいいんじゃないかって思う」
「……うん」
「でもさ、陽平、あんたならそれできる?」
「……やらなきゃいけなかったら、やるしかないだろ」
「できるの?障害を乗り越えてきたあの二人に、『実はあんたらの愛って一方通行で、どっかで雑音混じってるよ』って言える?朝から晩までその愛を信じて汗だくで働いてる朋也に?」
そう。朋也は智代を信じ切っている。
さっきの会話でもわかった。朋也はまだ智代に負い目を感じている。夫としてまだまだだってのを自覚している。それでも朋也は努力している。あいつなりに頑張っている。周りがどう言おうと、二人の愛は永遠だって信じて、それを守ろうとしている。
だから
そんな朋也だから
「あたしは許さない」
「杏……」
「許せない。どんな理由があろうと、朋也にどんな落ち度があろうと、それでも頑張っていってる朋也を智代が捨てるんなら、あたしは絶対に智代を赦せない」
自分でもひどいことを言ってるな、ってわかってた。でも、これだけは騙すことのできない感情だった。矛盾した思考が、そのまま口から零れてきた。
「僕も……赦せないね」
「陽平……」
「もし杏の言ってることが全部当たっていたら、僕は智代ちゃんも、そして智代ちゃんをそこまでさせた岡崎も、二人とも赦せなくなると思う」
でも、と彼は続けた。
「あくまでも全部当たってたら、の話だけどね。僕には信じられない」
「でも……でもあたしは実際」
「会ったのを見たんだろ?で、智代ちゃんが岡崎に何か隠してるのも確認したんだろ?それは信じるさ。でもね」
不意に小さく笑った。
「僕はさ、こう見えてもあの二人をずっと見て来たんだ。岡崎だけじゃないよ?智代ちゃんのこともだよ?智代ちゃんが生徒会長になった後で別れた時も、二人を見てた。で、またよりを戻してからも見てた。で、蹴り飛ばされた」
「……うん」
あの頃を思い出して、あたしも不謹慎ながら笑ってしまった。
「でさ、どう考えてもさ、智代ちゃんが他の男に行くとは思えないんだよね。考えても見てよ?校内放送を岡崎への私信に使うような恋に盲目な智代ちゃんだよ?浮気をする確率なら、岡崎の方が高いね」
「そんなっ!朋也は」
「ああ、そんなことしないね。だから信じられないんだ」
「……」
「何かあるよ、これ。もしかすると智代ちゃんは昔の悪い連中に脅されてるのかもしれない。または逆に、誰かを助けようとしているのかもしれない。とにかく、結論はまだ出せない」
「どうするの?」
決まってるだろ、と陽平が笑った。
「前進して突き止める。そのために、僕をわざわざ呼んだんだろ?」
馬鹿だあたし。答えは一つしかないのに、何悩んでたんだろ。
結局は確かめるしかないのに。智代にも話を聞くしかないのに。
「さてと。じゃあ修羅場に向かいますか」
「そうね。で、喧嘩になったらあんた真っ先に死んでくれる?」
「鬼っすねあなた!」
うん。大丈夫。
さあ、戦闘開始よ。